2023年5月1日月曜日

池田城について

池田城 城の痕跡

池田稲荷のある岩山は、昔から「城山」と呼ばれています。
「濃陽志略(のうようしりゃく)」という江戸時代の中頃に書かれた本にも、「池田氏古城、村の東南にあり 岩山なり」とあります。
池田の古い地名を調べてみると、「大門」「出口」「馬坂」「堀之内」など、城に関係のある地名が存在します。

戦国時代には、できるだけ周りから攻めにくい山を選んで、山の頂上付近に砦をつくり、領主や家来たちは、普段は山の麓(ふもと)に屋敷を作って住んでいました。
池田城も、城山の東側を土岐川が流れ、その支流である辛沢川(からさわがわ)が、山の麓を北西から流れており、自然の川や深い谷が、堀の役目をしています。
また、川岸からは、険しく切り立った崖になっています。
これらの川と岩壁によって、自然の要塞を形成しています。
この山一体を古来より城山と言い、城址は稲荷神社の境内を含む丘陵地、標高145メートル前後の位置にあったと思われます。

城山への通路は、2つあり、1つは字大門といわれる地点から深く切れ込んだ谷間(川合洞)に沿って山上に至る道です。
他の1つは、字下観音寺より登るルートで、現在車道として昭和初期に改修されています。この池田稲荷の登り道の左右の山林は、段のようになっており、いくつかの平地があります。右側の平地は、古くからのお墓でした。左側の平地からは、普段の生活に使った茶碗やすり鉢など古い焼き物が見つかっています。
したがって、かかる地点は、戦国初期から江戸初期の時代まで墓地や屋敷地であったと推測されます。

池田城/岐阜県多治見市
池田城址の遺構/わたしたちの郷土 より

山上の稲荷神社境内には城主や家来の墓と思われる室町時代前期と推定される五輪塔が7基あります。
また、不動明王のある山林に転祀された五輪塔も8基ほどあります。

稲荷神社の境内から、谷を隔てた山の斜面の中程には、崩れた石垣の一部がみられます。
池田稲荷のある頂上部は、平坦地となっており最も展望のきく場所です。
ここを城の中枢部分とすれば、砦跡の地点は物見矢倉等の施設があったのではと考えられます。

池田城/岐阜県多治見市
石積み/わたしたちの郷土 より


池田城の城主について

城主については、種々伝承があり、確定には至っていません。

「濃陽志略」には、代々、池田氏が住んでいたと書かれていますが、室町時代の始め頃、この地方は、土岐氏が支配しており、池田の城主もその一族か、あるいはその家来であったと考えられます。
戦国時代の終わり、16世紀の中頃になると、もともと土岐氏の一族であった明智氏を祖先とする池田織部正(おりべのしょう)という人が、可児郡池田の城主であったとされています。池田織部は、明智光秀の家来で、本能寺の変のあと、山崎の合戦で討ち死にしたことが、「明智軍記」という本に書かれています。
信長が、滅んだあとは、可児郡兼山の城(烏峰城(うほうじょう))にあって信長の家来であった森氏が、東濃一体を支配するようになります。そのころ、根本城の領主若尾氏も森長可(もりながよし)の家来となります。

明治29年、中央線の工事が始まり、池田3丁目(大門)にあった池田稲荷の社殿が今の場所に移されました。池田稲荷は池田市の守り神といわれています。

引用文献:

  • わたしたちの郷土/多治見市立池田小学校
  • 池田町屋郷土史/財団法人 池田町屋公民館

参照