2018年7月12日木曜日

池田の偉人(宮大工:野村作十郎と自由民権運動:小池勇)

1 宮大工 野村作十郎

池田の偉人(宮大工:野村作十郎)
宮大工 野村作十郎の作

宮大工 野村作十郎の功績


今から200年ほど前、「池田に名工あり」と言われた大工がいました。
それが、野村作十郎国筠(くにみつ)です。
作十郎は1815年、池田町屋村の材木屋に生まれました。

小さいころから、木を削ったり物をつくることが好きで、宮大工のもとへ弟子入りしました。
24歳のときには既に独り立ちして、一人で弁財天の社塔をつくりました。
それからは、廿原の神明神社、脇之島の多度神社、池田の永泉寺の山門、虎渓山永保寺の六角堂の修理など、たくさんの仕事をしています。
作十郎の一番得意な手法は、「流造(ながれつくり)」の様式といわれています。
「流造」とは、神社建築として最も多く用いられる様式で、前面が長くのびて向拝(ごはい・参拝者のための廂〈ひさし〉)となっている建築様式をいいます。
流造の建築物としては、京都の下賀茂神社本殿や宇治上神社本殿が有名です。
作十郎の作品の特徴の一つとして、龍や象、狛犬の彫刻がほどこされていて、屋根のそりとあわせて優美な建築であることが挙げられます。

廿原神明神社建築のエピソード
神明神社の本殿を作っているときに、寸法を間違えて木材を切ってしまいました。
それは普通の人では分からないような微妙な誤差だったのですが、正直者の作十郎は、素直に話して謝ったそうです。
作十郎は、技術だけでなく人柄も名工にふさわしい人物だったといえます。

廿原の神明神社を作るときには、庄屋の家で寝泊まりし、木を切る時間まで指図しました。
また彫刻を彫るときは、お経(きょう)をよみ、水をかぶってから取り掛かりました。
こうして作られた神明神社は、東濃地方にも甚大な被害をもたらした伊勢湾台風にもびくともしませんでした。

作十郎は、晩年大黒天像をつくり、知り合いの人々に送りました。
その中には、2mの大きな大黒天像があり、瑞浪に現存しています。
永泉寺にも腹中に三面相の大黒天を納める子持大黒天が残っています。

こうした仕事が認められて、「従五位上」という位が作十郎に授けられました。
以降、従五位上「野村杢頭國みつ(のむらもくのかみくにみつ)」として多数の神社仏閣を手掛けます。
以来「幕末 の甚五郎」のあざなを貰う程になります。
しかし、生活は貧しく、1871年に亡くなりました。

池田町をはじめ下街道沿いには、素晴らしい建築や彫刻を見ることができます。

野村作十郎が残した建築物や彫刻


永泉寺(多治見市池田町)
虎渓山永保寺 観音堂・開山堂(共に国宝)の再建、六角堂の再建・無際橋の改築(虎渓山町1-42)
廿原神明神社(多治見市廿原町中之洞228-1)
多度神社本殿(多治見市平和町1)
晋賢寺(多治見市大原町9‐32)
内津妙見寺 護摩堂(春日井市内津町)
内々(うつつ)神社(春日井市内津町)
大黒天像(瑞浪市土岐町鶴城地区)
愚渓寺 (可児郡御嵩町)
妻木八剣神社(土岐市)
鵜沼観音堂(各務原市)

永泉寺


慶長年代(1596~1614)密宗の僧、良情律師住寺、曹洞宗の僧周呑、来寺して厚交、1639年8月良情律師遷化、周呑、道空と共に、荒廃していた蓮華院の寺運を回復した、と伝えられています。
周呑は、村民の帰依も深く、住吉神社の南東方にあった蓮華院を現在地に移転、再興して山号を石堂山、寺号を永泉寺とし、曹洞宗に改宗して、善篤寺六世雲山和尚を、開山として迎えたのが永泉寺のはじまりです。

永泉寺本堂の彫刻は、野村作十郎国筠の作品として有名です。
野村作十郎国筠は大工棟梁として永泉寺の本堂や山門を建築しました。

また永泉寺惣門は多治見市内に現存している薬医門の形式で建立年代がはっきりしている門の中では最も古く、また地元の大工が手がけるなど地域の歴史的価値が高く、重要なものです。棟札は惣門の棟木に打ち付けられており、惣門の再建された年月や当時の大工や庄屋等がわかる資料として価値があり、市の附指定となっています。

2 自由民権運動の小池勇

「板垣死すとも、自由は死せず」


1882年、自由民権運動の指導者、板垣退助は多治見、岩村、中津川、美濃太田で演説をして回っていました。
岐阜市で懇親会(こんしんかい)を退出しようとするとき、暴徒に襲われました。
このとき板垣退助が叫んだ言葉が、「板垣死すとも、自由は死せず」です。
小池勇は、板垣らの自由民権運動を地方から支え、運動をつづけました。

小池勇の生い立ち(経歴)


1854年、小池勇は可児郡池田村に生まれました。
父の良策は、代々の家業をつぐ医者でした。
小池家の医業は古く、1626年初代の小池玄芳が、眼科医を開業しています。
勇は、良策の長男でした。
2歳のときに、母が亡くなり、もっぱら祖父母に育てられました。
6歳のころから、近くの寺子屋に通いますが、たいへんな読書好きだったようです。
12歳になると、(現在の可児市)久々利藩の医者 西山春成の塾に入り、医者を志しますが、身が入らず歴史や論語に興味を持ちました。
勇は友人らが上京するのに触発され、親の援助なしで上京し学問に励みます。
池田に戻った勇は、師範学校で勉強し、苟新小学校(池田小学校の前身)の先生になりました。
家が貧しく学校に通えない子のために、国へ請願書(せいがんしょ)を出して訴えます。
その当時、言論によって民主主義を実現しようとする国会開設に向けた運動が全国的に高まってきました。
勇は、こうした政治的運動に強く関心を持つようになります。


自由民権運動


1880年勇は、名古屋の愛知日報社に入り、新聞記者になります。
その後、「経世社」を設立し、憲法の制定や国会の開設を強く訴えました。
演説会も盛んに開き、演説会は50回に及びました。
運動を続けるには、多額の資金を要し、田畑を売って借金を重ねました。
ついには、言論の自由が奪われ、事件にかかわったとして逮捕され刑務所に入れられてしまいました。
勇は、所内でも囚人(しゅうじん)に対する扱いや重労働の改善に努力し、囚人に読み書きを教えたりしました。

池田村の村長になる


刑を解かれた勇は、岐阜県会議員に当選、その後、村長として村発展に尽力しました。
明治の末には、今の農業協同組合の前身である池田村農会を設立し、郷土の農業技術の向上と増産に力を入れました。
1940年、自由民権運動に半生をささげた小池勇は、86歳の生涯を閉じました。


「2020年、自由民権運動家・小池勇の没後80年を迎え、池田歴史同好会の会員らは、小池が村長を務めた時代の池田村役場日誌の解読を進めている。」として中日新聞に掲載されました。